プロジェクト大山のダンス@大野一雄フェスティバル
はあ、またしても、ものすごい体験をしてしまった。
本当においしいものを口にしたときに、「おいしい!!」としか言えないのと同じように。
プロジェクト大山のダンスはもう、「すごい!!」としか言えないような気がする。
相変わらずの衝撃の大きさに、言葉になるまでに時間がかかってしまった。
でも、何か感じたのは間違いがないでしょ。
だって、ダンスを見た日の夜に、何かに突き動かされるかのように、私は絵を描いた。
言葉に、できなかったんだろう。
文字に、できなかったんだろう。
けれども何かを表現したくなるようなエネルギーの爆発を、私は感じたのだ。
まさにそれは、「ああ、はれ」なり。
ダンスの感想を言葉で表現するというのはとてもナンセンスな気もする。
デモかくぞ!
そこには斬新でオシャレであり、かつ、何か懐かしさやヒトに共通の郷愁を誘うような設定と表現があった。
前にも書いたかもしれないが、プロジェクト大山さんの踊りにはどうも懐かしさをはらむ動きが見え隠れする。
今回はその踊っている彼女たちの動きそのもののほかにも目と気を奪われる設定がちりばめられていた。
彼らが踊りを披露する『場』が、あまりにも特殊だった。
部屋が二つ。小さな間口を一つ間にはさみ、完全に二つに部屋が分かれており、お客さんはどちらかのお部屋の中でみている。
踊る5人は、二つの部屋をすいすいと行き来する。
つまり、自分のいる空間から、完全に全員がいなくなることもある。
どちらのお部屋にも大きなスクリーンが二つ。一つには「ドキュメンタリー、踊りの巨匠たちの歴史」みたいな番組がずっと切れ目なく流れ続けている。
もうひとつ隣にあるスクリーンには、彼女たちの踊っている今この瞬間の映像が、流れている。すなわち、自分のいる部屋に彼女たちがいないときには、実際隣の部屋にいて踊っているその映像を我々は見ることになる。
『巨匠たちの踊り』の映像の前で実際に、かのじょたちが踊っていると、時にはコラボして、重なり合う瞬間があったり、かとおもえば私の目の前から完全にヒトがいなくなり、スクリーンの中だけに、今この瞬間に踊っていると思われる彼女たちと巨匠たちが映し出される瞬間がある。
これは何なんだ?!
現代と、巨匠たちの生きた過去の時代をつなぐ、異次元空間(ドラえもんが、タイムマシンに乗って時空を超えている瞬間のぐんにゃりした空間みたいな!)を味わった。
巨匠は画像の中で踊っているけど、今現在この瞬間生きて踊っているわけではない。
彼女たちは、今私の目の前にいないけど隣の部屋で踊っていて、その映像が流れている。
同じく映像を通してみているけれども、一方は今この瞬間に実際に存在している、他方はこの空間に存在していない。
でもでも、あれ??
もしかすると、巨匠も、実は今この瞬間に隣の部屋で踊っているのか?
時空の歪みを通り抜けて、過去と現在がつながったような感覚。
現場で見ているけれども、見逃したら二度と同じものは見れないぞという緊張感。
まさに一期一会。
この設定に脱帽。
踊りの後に、完全に異次元を提供してくれた5人のトークショーがあった。
衝撃は、このときにも来た。
なんて、かわいくて、頭の良い、ウィットに富んでユーモラスな女性たち!
なんて、懸命に物事に取り組む女性たち!
このエネルギーを、その小さいからだからどうやって発生させているのだろうか。
限りなく美しい女性たち、その輝かしさには理由があった。
言葉では、表現しにくいだろう。
でも、一人ひとり、じぶんが自分の体を通して発していたものに、その意味というか背景にあるものが何なのかを一生懸命伝えようとしていた。
プロジェクト大山は、何かの形や既存の概念、自分たちのこだわっているもの を表現するために活動しているわけではないのだ。
”今ここ、この瞬間”の等身大の自分たちを基に、表現したいものをもっとも心地いい形で表現することに力を注いでいるのだろう。
決して背伸びをして誰かのまねをしたような表現をするわけでもなく、でもイイものはイイと言い、素直に取り入れる柔軟さを持ち、だからこそ無限性を感じさせる。
それは、観客に対してだけの態度ではない。
プロジェクト大山の中でダンスをするすべての女の子たちが、お互いを大事にしており、お互いのいいところを引っ張り出す。
自己主張をして、私のほうがもっときれいにうまく踊れる、そんな考えは全く思いつきもしないのだろう。
たとえば、である。
たとえば、私とかでも、入れてくれそうな気がするのだ、そのプロジェクトに。
(いやまあ、実際はお断りされると思いますが、概念的なものです、ええ、すみません)
で、全く基礎のない私を入れたダンスを構成する時に、
「この素人っぽい感じが、いいんだよね、この場面では、この動きを基調にとりいれてやってみよう!ほら、これ超面白いじゃん、踊れない人じゃないとこの動きにはならないでしょ」
という感じで組み上げられていくのではないかと思わせる。
そうなのである、
「そこにあるものを最大限に生かして、最大限に魅力的にする」能力を、もっているのだ。
彼女たちを見て最も大きくわくイメージは
「可能性」
である。
「チーム大山」
ではなく
「プロジェクト大山」
なのだということがよくわかった。
ガーン。
もう、彼らの存在こそ、
『ああ、はれ』
である。
私は、永久に、大ファンなんだな。
本当においしいものを口にしたときに、「おいしい!!」としか言えないのと同じように。
プロジェクト大山のダンスはもう、「すごい!!」としか言えないような気がする。
相変わらずの衝撃の大きさに、言葉になるまでに時間がかかってしまった。
でも、何か感じたのは間違いがないでしょ。
だって、ダンスを見た日の夜に、何かに突き動かされるかのように、私は絵を描いた。
言葉に、できなかったんだろう。
文字に、できなかったんだろう。
けれども何かを表現したくなるようなエネルギーの爆発を、私は感じたのだ。
まさにそれは、「ああ、はれ」なり。
ダンスの感想を言葉で表現するというのはとてもナンセンスな気もする。
デモかくぞ!
そこには斬新でオシャレであり、かつ、何か懐かしさやヒトに共通の郷愁を誘うような設定と表現があった。
前にも書いたかもしれないが、プロジェクト大山さんの踊りにはどうも懐かしさをはらむ動きが見え隠れする。
今回はその踊っている彼女たちの動きそのもののほかにも目と気を奪われる設定がちりばめられていた。
彼らが踊りを披露する『場』が、あまりにも特殊だった。
部屋が二つ。小さな間口を一つ間にはさみ、完全に二つに部屋が分かれており、お客さんはどちらかのお部屋の中でみている。
踊る5人は、二つの部屋をすいすいと行き来する。
つまり、自分のいる空間から、完全に全員がいなくなることもある。
どちらのお部屋にも大きなスクリーンが二つ。一つには「ドキュメンタリー、踊りの巨匠たちの歴史」みたいな番組がずっと切れ目なく流れ続けている。
もうひとつ隣にあるスクリーンには、彼女たちの踊っている今この瞬間の映像が、流れている。すなわち、自分のいる部屋に彼女たちがいないときには、実際隣の部屋にいて踊っているその映像を我々は見ることになる。
『巨匠たちの踊り』の映像の前で実際に、かのじょたちが踊っていると、時にはコラボして、重なり合う瞬間があったり、かとおもえば私の目の前から完全にヒトがいなくなり、スクリーンの中だけに、今この瞬間に踊っていると思われる彼女たちと巨匠たちが映し出される瞬間がある。
これは何なんだ?!
現代と、巨匠たちの生きた過去の時代をつなぐ、異次元空間(ドラえもんが、タイムマシンに乗って時空を超えている瞬間のぐんにゃりした空間みたいな!)を味わった。
巨匠は画像の中で踊っているけど、今現在この瞬間生きて踊っているわけではない。
彼女たちは、今私の目の前にいないけど隣の部屋で踊っていて、その映像が流れている。
同じく映像を通してみているけれども、一方は今この瞬間に実際に存在している、他方はこの空間に存在していない。
でもでも、あれ??
もしかすると、巨匠も、実は今この瞬間に隣の部屋で踊っているのか?
時空の歪みを通り抜けて、過去と現在がつながったような感覚。
現場で見ているけれども、見逃したら二度と同じものは見れないぞという緊張感。
まさに一期一会。
この設定に脱帽。
踊りの後に、完全に異次元を提供してくれた5人のトークショーがあった。
衝撃は、このときにも来た。
なんて、かわいくて、頭の良い、ウィットに富んでユーモラスな女性たち!
なんて、懸命に物事に取り組む女性たち!
このエネルギーを、その小さいからだからどうやって発生させているのだろうか。
限りなく美しい女性たち、その輝かしさには理由があった。
言葉では、表現しにくいだろう。
でも、一人ひとり、じぶんが自分の体を通して発していたものに、その意味というか背景にあるものが何なのかを一生懸命伝えようとしていた。
プロジェクト大山は、何かの形や既存の概念、自分たちのこだわっているもの を表現するために活動しているわけではないのだ。
”今ここ、この瞬間”の等身大の自分たちを基に、表現したいものをもっとも心地いい形で表現することに力を注いでいるのだろう。
決して背伸びをして誰かのまねをしたような表現をするわけでもなく、でもイイものはイイと言い、素直に取り入れる柔軟さを持ち、だからこそ無限性を感じさせる。
それは、観客に対してだけの態度ではない。
プロジェクト大山の中でダンスをするすべての女の子たちが、お互いを大事にしており、お互いのいいところを引っ張り出す。
自己主張をして、私のほうがもっときれいにうまく踊れる、そんな考えは全く思いつきもしないのだろう。
たとえば、である。
たとえば、私とかでも、入れてくれそうな気がするのだ、そのプロジェクトに。
(いやまあ、実際はお断りされると思いますが、概念的なものです、ええ、すみません)
で、全く基礎のない私を入れたダンスを構成する時に、
「この素人っぽい感じが、いいんだよね、この場面では、この動きを基調にとりいれてやってみよう!ほら、これ超面白いじゃん、踊れない人じゃないとこの動きにはならないでしょ」
という感じで組み上げられていくのではないかと思わせる。
そうなのである、
「そこにあるものを最大限に生かして、最大限に魅力的にする」能力を、もっているのだ。
彼女たちを見て最も大きくわくイメージは
「可能性」
である。
「チーム大山」
ではなく
「プロジェクト大山」
なのだということがよくわかった。
ガーン。
もう、彼らの存在こそ、
『ああ、はれ』
である。
私は、永久に、大ファンなんだな。
by desreelove
| 2009-10-19 17:38
| 本、映画、絵画、音
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