『王と鳥』と所有と支配
ひとつ前に書いた文章の続き、みたいなものですが、、、
『王と鳥』
…この映画のことを考えていたら、なんだか田口ランディさんの本の中の一節を思い出した。
『生きなおすのにもってこいの日』のなかの、「カオスに生きる」。人間の所有と支配、が出てくるお話。
『私の欲望を満たすことのできる存在、道具、場所を、私は所有したくなるし、所有できる
と無自覚に思いこんでいる。そして欲望のままに所有してきた。当然ながら私の体も私の
財産だと思ってきた。』
『しかるに、ですね。私の体というものは、やっぱり所有の対象にはならないと思うんです。
・・・・だって生命って勝手に出て来たものですからね。
・・・・しかも私が生きるための環境は他の生命によって維持されている。
空気と水があって、生んで育ててくれる人がいて私が存在しているわけですよ。
全く受け身だよね。さらに死のうと思って死ぬのではなく、勝手に老いて死ぬわけです。
私は私と体を分離できない。
・・・・私は私という全存在で持って私であるわけです。その私が、私を所有するというのは、
私が私の体を道具として分離しているということですが、どう考えたって分離できないです。
どっちかっていうと、私の体は私の意思にかかわらずに勝手に老いさらばえていくわけで、
ということは、私は私の体に逆に所有され支配されていると言えます。』
『じゃあ「所有する」ってなんだろうか。この権利は私が生まれた時すでに私に属していた
ものなのか。そうではないと思うんです。人間が所有をしていいって誰が決めたのか。
そもそも人間だけが所有していいのか。それは傲慢じゃないのか。所有を行使して奪った
ものを、それをまた権利で奪い返す…というのが延々と続くわけです。』
そしてランディさんはウアウトラで出会った二人のシャーマンの、いつも太陽と空と海と大地と生命、それら所有不可能なものへの感受性と感謝の深さに心が響くという。普通の生活をしていて、だけど謙虚と感謝を知っていると。そして、ランディさんはこう結ぶ。
『みずからの尊厳、権利、所有を主張して競い合うという、そういうパーツで構成された
世界ではない世界はあるし、世界は同時に存在し、私たちはほんのちょっと地と図を
入れ替えれば別の世界が立ち現れるのを体験することが可能です。この世界を壊さ
なくても、せめて別の世界を見ることができれば…。もしかして、この世界の渾沌を生
きることが可能かもしれないのです。』
ランディさんの文章を読んで、所有、支配欲にかられていた自分が浮き彫りになったみたいで、恥ずかしくなった。おんなじじゃん、『王と鳥』のえばりんぼうの王様と、おんなじじゃん私。まあさすがに、30も過ぎて、高校生の時と全く同じわけではないだろうけれども。でも、こういうところあるよなあ。そんな自分にうんざりすることもしばしば。
王様みたいに形にできる権力とか力とかがあるわけじゃないし、ちょっと他人の目を気にしているところもあるから、していないだけで、所有したいって。
思っている。
でも、いや、だからこそ、ランディさんの言葉で体に頭に心に、衝撃が走った。あんまりはっきりと自分の心の中を見透かされたようで、でも、そうあれれば自分は淡々とした中でも生きていることを幸せに思えるんだろうなっていうような生き方を提示してもらったような気がしてシビレタ。
こうやって、ものの見方が180度変わるような体験、というか、体感?をすることって、ものすごいことだと思う。一度自分が砂粒みたいにばらんばらんになって、また、まあ見た目は全く同じ形になったとしても組成が変わるというか、再構築された自分になるっていうか。
そういう自分になれることは、気持ちいいんだろうなって、想像できる。
こういうのって、無理やりそうなる、っていうんじゃなくて、実感すること、なんだろうなと思う。
今自分が自分の命を継続させていられるのも、全て自然の中の命あるものによるわけで、その存在を忘れて自分が生きていると思うのは何ともおこがましい。他者あっての自分。とはよく言うし、本当に最近痛感することが多いが、それ以前に自然や「おのずから」あっての「みずから」だなあと思う。
さすがに、完全に悟ったというわけでは、もちろんない。
(っていうか、悟るって何?)
なるほど!と思っただけである。
でも、少しでも実感として、今まで全く自分の中で意識できなかった、とってもいいものの考え方があるんだってことに気付くことができた。うんうん。
いろんなことがぐるぐると頭と心の中を駆け巡って、考えているうちに私の頭の中でイメージしている世界なのではなくて、そういう思想の世界の中に米粒みたいに私が一粒ぷかぷか浮いているような気もしてきて。また米粒の私の頭の中に無限の思想世界が広がって。もう、何が何やらわからなくなってきた。そして気分がいい。
ほんとうは、ランディさんのこの文章を読んだときからずっと、衝撃を受けて、いつか言葉にしたいと思っていたというのもある。でもなんか、うまく表現できないような気もしたし、、、
いいタイミングで、『王と鳥』に出会ったというわけ。
王様をほんと嫌な奴と思いながら、そんな王様にかぶる自分に、焦って…
そして、文章にしてみた。
すっきりした。
------------------------------
先日、友人のブログにもあった、「出会ったポイントから見れば、これまでの軌跡は必然」というテーマに関しても、かなり腑に落ちた感があって、自分としては今とても熱いネタである。だし、腑に落ちる、しっくりくる、ということがどういうことなのかを考える、というか感じることもいま、私の中で熱い。
どうも私は、そもそもじっくりと自分で考え、突き詰めて何か新しいひらめきがあるということは、殆どない。
でも、自分の尊敬する人たちからもらう優しくも鋭い洞察や、それどころか一緒に居るというだけのその『場』から、はかりしれないエネルギーをもらっているのである。
だから、少なくとも、そういう『場』にどんどん足を運ぶことだけは、していたいと思う無精者の私なのである。
『王と鳥』
…この映画のことを考えていたら、なんだか田口ランディさんの本の中の一節を思い出した。
『生きなおすのにもってこいの日』のなかの、「カオスに生きる」。人間の所有と支配、が出てくるお話。
『私の欲望を満たすことのできる存在、道具、場所を、私は所有したくなるし、所有できる
と無自覚に思いこんでいる。そして欲望のままに所有してきた。当然ながら私の体も私の
財産だと思ってきた。』
『しかるに、ですね。私の体というものは、やっぱり所有の対象にはならないと思うんです。
・・・・だって生命って勝手に出て来たものですからね。
・・・・しかも私が生きるための環境は他の生命によって維持されている。
空気と水があって、生んで育ててくれる人がいて私が存在しているわけですよ。
全く受け身だよね。さらに死のうと思って死ぬのではなく、勝手に老いて死ぬわけです。
私は私と体を分離できない。
・・・・私は私という全存在で持って私であるわけです。その私が、私を所有するというのは、
私が私の体を道具として分離しているということですが、どう考えたって分離できないです。
どっちかっていうと、私の体は私の意思にかかわらずに勝手に老いさらばえていくわけで、
ということは、私は私の体に逆に所有され支配されていると言えます。』
『じゃあ「所有する」ってなんだろうか。この権利は私が生まれた時すでに私に属していた
ものなのか。そうではないと思うんです。人間が所有をしていいって誰が決めたのか。
そもそも人間だけが所有していいのか。それは傲慢じゃないのか。所有を行使して奪った
ものを、それをまた権利で奪い返す…というのが延々と続くわけです。』
そしてランディさんはウアウトラで出会った二人のシャーマンの、いつも太陽と空と海と大地と生命、それら所有不可能なものへの感受性と感謝の深さに心が響くという。普通の生活をしていて、だけど謙虚と感謝を知っていると。そして、ランディさんはこう結ぶ。
『みずからの尊厳、権利、所有を主張して競い合うという、そういうパーツで構成された
世界ではない世界はあるし、世界は同時に存在し、私たちはほんのちょっと地と図を
入れ替えれば別の世界が立ち現れるのを体験することが可能です。この世界を壊さ
なくても、せめて別の世界を見ることができれば…。もしかして、この世界の渾沌を生
きることが可能かもしれないのです。』
ランディさんの文章を読んで、所有、支配欲にかられていた自分が浮き彫りになったみたいで、恥ずかしくなった。おんなじじゃん、『王と鳥』のえばりんぼうの王様と、おんなじじゃん私。まあさすがに、30も過ぎて、高校生の時と全く同じわけではないだろうけれども。でも、こういうところあるよなあ。そんな自分にうんざりすることもしばしば。
王様みたいに形にできる権力とか力とかがあるわけじゃないし、ちょっと他人の目を気にしているところもあるから、していないだけで、所有したいって。
思っている。
でも、いや、だからこそ、ランディさんの言葉で体に頭に心に、衝撃が走った。あんまりはっきりと自分の心の中を見透かされたようで、でも、そうあれれば自分は淡々とした中でも生きていることを幸せに思えるんだろうなっていうような生き方を提示してもらったような気がしてシビレタ。
こうやって、ものの見方が180度変わるような体験、というか、体感?をすることって、ものすごいことだと思う。一度自分が砂粒みたいにばらんばらんになって、また、まあ見た目は全く同じ形になったとしても組成が変わるというか、再構築された自分になるっていうか。
そういう自分になれることは、気持ちいいんだろうなって、想像できる。
こういうのって、無理やりそうなる、っていうんじゃなくて、実感すること、なんだろうなと思う。
今自分が自分の命を継続させていられるのも、全て自然の中の命あるものによるわけで、その存在を忘れて自分が生きていると思うのは何ともおこがましい。他者あっての自分。とはよく言うし、本当に最近痛感することが多いが、それ以前に自然や「おのずから」あっての「みずから」だなあと思う。
さすがに、完全に悟ったというわけでは、もちろんない。
(っていうか、悟るって何?)
なるほど!と思っただけである。
でも、少しでも実感として、今まで全く自分の中で意識できなかった、とってもいいものの考え方があるんだってことに気付くことができた。うんうん。
いろんなことがぐるぐると頭と心の中を駆け巡って、考えているうちに私の頭の中でイメージしている世界なのではなくて、そういう思想の世界の中に米粒みたいに私が一粒ぷかぷか浮いているような気もしてきて。また米粒の私の頭の中に無限の思想世界が広がって。もう、何が何やらわからなくなってきた。そして気分がいい。
ほんとうは、ランディさんのこの文章を読んだときからずっと、衝撃を受けて、いつか言葉にしたいと思っていたというのもある。でもなんか、うまく表現できないような気もしたし、、、
いいタイミングで、『王と鳥』に出会ったというわけ。
王様をほんと嫌な奴と思いながら、そんな王様にかぶる自分に、焦って…
そして、文章にしてみた。
すっきりした。
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先日、友人のブログにもあった、「出会ったポイントから見れば、これまでの軌跡は必然」というテーマに関しても、かなり腑に落ちた感があって、自分としては今とても熱いネタである。だし、腑に落ちる、しっくりくる、ということがどういうことなのかを考える、というか感じることもいま、私の中で熱い。
どうも私は、そもそもじっくりと自分で考え、突き詰めて何か新しいひらめきがあるということは、殆どない。
でも、自分の尊敬する人たちからもらう優しくも鋭い洞察や、それどころか一緒に居るというだけのその『場』から、はかりしれないエネルギーをもらっているのである。
だから、少なくとも、そういう『場』にどんどん足を運ぶことだけは、していたいと思う無精者の私なのである。
by desreelove
| 2009-11-27 21:10
| 本、映画、絵画、音
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