日々

「死の物語」  

f0206488_23244099.jpgちくま新書
『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』
竹内 整一著


この本が、今の自分に多大なる影響を及ぼしており
噛み砕いて解釈するために私は3回ほど
通して(強烈に印象深い部分は、それ以上)読んでみた。

自分として印象深く心に刻まれている部分を少し。
それから、いま、漠然と心に湧きあがる感情を少し
綴っておこうかと思う。

ずっとずっと、思っていたこと。
でもまとまらなかったこと。
この本に、その私の気持ちを代弁するかのように
描かれていたこと。





******************
第2章 「死の臨床と死生観」のパートより


宮沢賢治の「青森挽歌」



かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じようとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする



それは、
「みんなが死ぬとなづける
そのやりかた」
として、死の”概念”を三人称的に考えることではない。
-----
「感ずることのあまりに新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもつてばかりゐてはいけない」

******************




彼が死んだあと、私はどう考えても
その事実や周りを取り巻く空気も含め
直視することがあまりにも痛切で
それを避けていたのだと思う。
親友であり、若くして命を失った彼は
とても大事な人。
なのに私ときたら。

自分自身に対する自己嫌悪の念。
深く傷つけてしまった彼に対する申し訳なさ。
それをもう、直接は伝えられないという
可能性のなさ、絶望。
そんなことを思うにつけ決して忘れたくないはずの
大親友のことをそして自分のことを考える
というプロセスをいつかしなければ
と思いつつも避けていた。

あまりにも生々しくて、それと正面きって
向き合うことにより、自分が傷つくのが
どうしても嫌で、後回しにしていたのかもしれない。
「思いを風化させてはいけない」
という考えをあの日からずっと持っている
にもかかわらず、少し客観的に自分と、
あの事実を捉えられるようになったときでないと
深く考えてみようにも考えがわき出てこない
と後回しにしていたのかもしれない。

でも、私も本当はずっとずっと
彼のことを『かんがへだしたかった』。

彼は、「なんで俺がこんな病気になったんだ
なんで俺がこんな目にあうんだ」とは
一度も言わなかった。
いや、そんなこと思ってもいなかった。
若い盛りで、たくさんの可能性を秘めた
彼にとって、当時の彼の現世はもちろん
離れがたい魅力を秘めていたに違いない。
この世の自分が少しずつ薄れていくことを、
敏感に感じ取り、何とかそれにしがみついて
こちら側で生き続けたい、と
ずっと思っていたに違いない。
それでも、
彼は彼自身の、死ぬタイミングを
それこそ冷静に見つめていた。
私が勝手に「しにたくないだろうに」なんて
思っていた考えとは別次元で
彼は自分の変化を、向かうところを
理解していたと思う。

今やっと想像できる。
わたしは、当時あなたを理解するには
あまりにも幼すぎたし
包み込むにはあまりにも小さかった。
彼自身は自分の「命」をどう考えているのか
なんて、恐ろしくて、私は想像することすら
はばかられた。

以前の私は、彼の心肺が停止する瞬間を
何か、点のようなもので捉えていて、。
その点よりも前が、生(前)
その点よりも後が、死(後)
と、考えていた。
確かに、そのポイントを超えると
(正確にはそのポイント前後で)
体を形成している生きている細胞たちが
必要とする栄養や酸素を充分に受け取る
ことができず、徐々に、眠るように死んでいき
結果個体としての体の死が訪れるわけだけれども。
今は、そのポイントで区切ってその人のすべてが
終了するとは、どうも考えがたい。
(もちろん、個体の死とは何かという
医学的定義を論議するとなると
これはまたかなり複雑な話になってしまうが
今のところそれはおいておいて。)

死んだあとは、天国へ?はたまた地獄へ?
というが、誰が行くわけ?それは、魂?
魂さんは、たぶん、自在なのだと思う。
窮屈な体という器を抜けて、自由に動き回ることができる。

****************
『懸命の願いや祈りを含めて、
感情や意志や信仰、夢や幻想、
そうしたもののすべてを動員して、
こちら側の「空間の方向」とは異なる
次元に向かっての営み。』
****************

まさに、その通りだと感じた。


だから、あなたの体はもうここにはないけれども
私はちょっとは成長して、あなたをかんがへだそうとしている。
間違いなく、あなたはここにいて
いや、体はないのだけれど、
つまり心はここにいて。
『ここ』は、私の中である。
私の中の思い出としての彼
という意味では、ない。
今を生きている彼が、今この瞬間に
私の中にいる、ということである。

まさに、柳田邦男さんのいうところの
『死んでいった息子や父がどこにいるのかというと、
自分の中にいる。
つまり、自分が「あの世」になってしまうのだが、
ふすまを開けたら、そこは私であった
という感じだ』
ドンピシャのイメージ。


彼のことは、断じて「触れてはならぬこと」ではない。
そう、幾度となくかんがへだしてあげたい。
その限りにおいては、そのみずみずしい彼の魂は
現に存在しているのだと実感できるから。
それは、ちょっと一方的な私のやり方
なのかもしれないけれど、こんなに身近に
彼を感じることのできる、素晴らしい方法
だと私は思っている。

宮沢賢治の詩は、あまりにも私の心の中をあらわに
表現してくれているようで、正直びっくりしてしまった。
そして、今この文章と出会えたことを
とても感謝している。

どうしたことだろうか。
もちろん後悔の念が消えたわけではない。
でも、なぜだかとても彼を近くに感じる。
死んでもなお生き続けるというのは、こういうことなのかしら。




…はあぁ。
まだこの本の中でたくさんの感銘を受けた箇所をモリモリ書き出したいところだが。
また日を改めるとしよう。
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by desreelove | 2009-05-11 23:39 |

2012年4月よりカナダトロントに住んでいます。
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